わたあめちゃんのお墓

更新は終了しました

いつ死ぬかわからんのに時間的展望の逆転も何もあるか

本日の授業で、前期でもやった「時間的展望の狭まりと逆転」というものが再び話題にされた。これに関して、わたしはとても疑問に思うことがあった。
まず、「時間的展望の狭まりと逆転」とは、発達心理学の用語であり、中年期において、「今まで生きてきた年齢ではなく、これから生きられるほうの年齢をより重視し、誕生からではなく死の側から自分を意識する」ことである。「時間的展望」とは「何年生きてきて、これから何年生きるか」というような意味であり、40~50歳くらいになると「何年生きてきたか」よりも「あと何年生きられるか」ということを考えがちだ、ということだ。おそらく。
これの何に違和感を抱いたかというと、若い衆が死を感じずに生きているということと、まるで80歳あるいは100歳まで生きることが当たり前かのように語られていたことだ。
自明であるが、人間はいつ死ぬか分からない。それは、明日かもしれないし、今かもしれないし、60年後かもしれない。わたしは、誰もが「自分は平均寿命程度まで生きるだろう」とほとんど無意識下に考え、人生設計を立てていることが、疑問で仕方がないし、心の底からそういった人間たちを軽蔑している。そういった人間が学術会の中でさえマジョリティであることに、わたしは嫌悪感を覚えた。そんなものは、認知の歪みだ。
「何年生きるか」どころか「何秒生きるか」すらわたしたち人間には分からない。あなたは今、これを読みながら心臓発作やら脳梗塞やらで死亡するかもしれない。それが喜ばしいことであるかできれば避けたいことなのかは、個人によるものであるため言及はしない。しかし、今死ぬかもしれないのに、何十年も先の将来のことを真面目に考えるのは無意味であると思うのだ。夢想するのは構わない。例えば、わたしは、老婆になってからのんびりと喫茶店を構え、猫と共に暮らすことを夢見ることがある。これは、考えているだけで楽しいので、良い。しかし、就活や院進などについて真面目に考えるのは無意味なのではないか。わたしたちに先のことは分からない。死にはしなくとも、努力して望んだ企業に就職したところで、数年、数ヶ月、あるいは数日で辞めるかもしれない。だから、そんなものに真面目に取り組んでどうするんだ、と思うのだ。
わたしたちは今死ぬかもしれないし、100歳を超えてまで生きるかもしれない。どうなるかはわからない。死ぬときは死ぬし、死ななければ生きる。当たり前のことだ。また、多少何かがあったくらいで死んだりはしないし、死なない限りは生きるしかないのだ。だから、そのときになってからそのときに応じて考えるのがいい。そのときのことは、そのときにならない限りわからないものだ。人生設計なんて、立てるだけ無駄である。あなたが書いた人生の設計図なんて、破り捨ててしまえ。

 

20200121

わたし自身の「性」について

フォロワーがやっていたので、ジェンダーのテストとセクシュアリティ分析というテストをやってみた。

 

性役割テスト↓

https://www.idrlabs.com/jp/gender/test.php

 

セクシュアリティ分析↓

https://anone.me/users/sign_in

 

ジェンダーのテストでは、両性ともに10%程度(これがどういった尺度なのか、わたしには分からない)で、「中性」だと判断されたのだが、それほど低いのなら「中性」というよりは「無性」なのではないかと、素人ながらに思った。

後日、セクシュアリティ分析というものもやってみた。結果としては、身体的な性といわゆるこころの性は一致しており、バイセクで、「表現したい性」というのは男性でも女性でもないXジェンダーであった。わたしが個人的に最も興味深く感じたのは、「愛はあるけど体の関係を持つのは苦手」という診断結果であった。なぜなら、わたしはその日初めて会った人ともセックスできてしまうからである。決して「体の関係を持つのが得意」というわけではないのだが、見知らぬ人と身体を重ねることに不快感や葛藤は特にない(自覚できる範囲では)。だから、このような結果が出たときに少し驚いた。ただ、表現上の問題でもあるのではないかという気がする。前述のようなものを「リスセクシュアル」と呼ぶらしいのだが、わたしはこの言葉を今回初めて聞いたため、これについて全く知らない。詳しく調べれば自分にあてはまってすっきりした感覚を得られるのだと思う。肉体関係を持つことに関して、わたしは「苦手」というか、愛とセックスが結びつかないだけなので、そういった意味合いが含まれるのなら、リスセクシュアルで間違いないだろう。

また、「表現したい性」というものについても気になった。ここでは、例えば「どんな服装を好むか」というような話だそうなのだが、これについてわたしは非常に地味で、確かに女性とも男性とも言えないような服装をしている。しかし、いかにも「女の子」というようなフリルのたくさんついた洋服にも憧れる。男性の服はつまらない(というと良くないけれどわたしが普段着ている服と大した違いはないように思う)のでそれほど興味はないが、しかしわたしが普段着ているコートは男物であるし、トレーナーやTシャツも男物のものがいくつかある。そのように考えていたら、わたしは男性にも女性にもなりたいのではないかと感じた。考えてみれば、同い年かあるいは年上の男性とご飯に行ったとき、何も言われない限りは払ってもらうべきだと感じてそうしていたし、逆に友だちの女の子と歩くときには車道側を歩くように努めていた。以前も述べたように、わたしは処女厨であり、おそらくジェンダーというものにがんじがらめにされている。不快に思う方もいると思うが、男は奢るべきであり進んで車道側を歩くべきであり、女は守られているべきであるのだという考えが、わたしの意識の底にはある。つまり、わたしは、男性といるときは自分の女性性を強調し、女性といるときは男性的になろうとしていたのではないかと思ったのである。ここで、先述した「誰とでもセックスする」ということについて、セックスが最も女性性の際立つ行為であるから、好んで多くの男性とするのではないかと考えた。

わたしは、女性的にも男性的にも魅力的でありたかったのではないか。胸は貧相すぎるので女性らしくなれないし、かといって男性らしく(かっこよく)なれるかというと、身長が低すぎてそうでもない。男性にも女性にもなれないまま、どちらも手に入れようとしているのではないか。わたしの浅い頭で考えて、そのような考えに行き着いた。

統合失調症なのでまともな文章を書くことができない

統合失調症なのでまともな文章を書くことができない。

まともな思考ができないのにまともな文章なんか書くことはできないだろう。

 

そうして病気を理由に自分のめちゃくちゃな文章の言い訳をするのだ、情けない。更に情けないのは、それを半分本気で思っていることだ。

 

自分の書いた文章を後で見返してみたとき、訳が分からなすぎて絶望した。こんなひどいものをインターネットの海に流して晒していると思うと恥ずかしくて仕方がなかった。

それでも書くことをやめられなかった。決して前向きに、自分の文章を磨きたいと思って書き続けているわけではない。何か生産的なことをしていないと、自分を許せないし、落ち着かないのだ。それは自分が生産的と認められればそれで良くて、楽器を弾くでも、絵を描くでも、曲を作るでも、料理をするでも、ほんとうに何でも良いのだ。今日はたまたま言葉を使って何かを作りたかった、それだけだ。

それなのに、まともな文章が書けなくなった。最初から書けていなかったのかもしれないが、その場合は書けていないことに気付いたと言い換えれば良い。文章は、わたしの人格そのものだと感じている。だから、わたしの文章を否定されたときには人格や存在そのものを否定されたように感じる。わたし自身がわたしの文章を認められなくなったとき、それはそれは辛かった。わたしがまともにできるのは言葉を紡ぐことくらいだった。おまえなんにもできないな、とわたし自身に言われてしまったのだ。

それでも書かずにはいられないようなので、こうして書いている。そしてなぜこんな駄作を世界に晒しているのか考えたが、おそらくそうした方がやさしい評価をしてもらえる可能性があるからだろう、わたしが読んでも、きもいなーとしか思えないので。やさしい方々は、SNSでいうようないいねを押してくれるので(ありがとうございます)。

 

まともな思考ができないという記述の回収をしたかったのだが、うまく道を作れずに読者に感謝する方向に進んでしまった。いや、読者への感謝は何よりも重要である。今後ともよろしくお願いしたい。

まともな思考ができないのである。この頃、記憶が怪しくなってきた。まだ10代なので、ボケ老人になったわけではない。記憶が怪しいというのは、何が事実なのかわからないという意味だ。頭の中で勝手にストーリーが作られて、それが事実に成り代わる。当初、わたしはこれを「偽の記憶」と呼んでいたが、ただ単に妄想と現実の区別がついていないだけなのではないかと疑い始めた。これによって困ることは特にないだろうと面白がっていたのだが、何が現実なのかわからないのは、そこそこの恐怖をわたしに与える。というか、「妄想と現実の区別がつかない」という字面がなかなか強烈で、実は危険な状態なのでは?と思い始めたのである。

パラレルワールドを垣間見てしまったのだろうか、そう考えると少しわくわくする。

 

こんな混乱した頭の状態でまともな文章なんて書けるわけないよなあと、自分を納得させることで今日も駄文を流すのでした。書いているだけでつらいけれど、書かないでいるのはもっとつらいんだよ。

 

20200108

某国立大学の先生方へ、多分自殺問題の重大な部分はそこではないです笑

他大学の教職課程のある教科書に、今の子供たちが容易く自殺を選ぶのは死に触れる機会が減っているからだと書かれており、その本を読む気をなくした。死の重大さを分かっていないからだと。

こいつはなにもわかってない。

わたしは何度も自殺を考えたし、実際に行動に移したりもした。しかし、それが死を理解できていないからだとは決して言えないだろう。わたしよりも、普通に働いて生きている大人たちの方が死について何も考えないまま生きていると思っている。死にたくなったことのないやつが、死のうとした子は死についてろくに知らないだなんて、言えるわけがないだろう。死のうとするときには、嫌でも死について考える。自分の行きつく先であり、進学や就職などとは比べ物にならないほど大きな進路選択だ。そんな重大なものを考えないわけがないだろう。ストレスで疲弊したろくに使い物にならない脳で、死というつかみどころのない概念について散々考えて、考えついた先で自死を選んでいる。わたしは、10年近く自殺や死についてばかり考え続けて、そうして自分なりの答えが出て、しばらくしてから首を吊った。落ちもしなかったけれど。

少なくともお前よりは考えているよ。なんという題名の本だったか忘れてしまったが、あの教科書の筆者にそう言いたい。

筆者が言いたかったのが、今の若者が触れてこなかったものが死自体ではなく、愛する人の死に伴う自分や周りの人の悲しみといった様々な影響だというのならわからなくもない。一体いつの時代と比較して若者が死に触れていないと述べているのか知らないが、核家族化と高齢化で自分のよく知っている身近な人が死んだという経験がないという子どももいるのかもしれない。そこのところはデータを見たわけでも調べたわけでもないから知らないので否定できない。

だが、わたしにおいては、そうとも言えないのではないかと思う。幼すぎてあまりよくわかっていなかったような気がするけれど、祖父母の姉だか何だかの死に顔を見て「さようなら」をした記憶がある。

斜向かいのおじさんが死んだときも、なぜなのかよくわからないが、死に顔を見て送った。このときは、死の空気というか、おばさんの悲しみに触れるのが恐ろしくて、わたしはひたすら無だった。

隣の一つ上のお兄さんが死んだときも「挨拶してきなさい」と親に言われて渋々行ってきたが、お兄さんのきれいな顔と親御さんの表情を見て、何と声をかけていいかわからなかったことを覚えている。ただ静かにちーんと叩いて手を合わせるわたしを見たお母さんに、泣きながら「ありがとうね」と言われたが、何がありがたいのかもわからなかったし、何と答えるのが正解なのかもわからなくて、言葉にもならないような適当なことしか言えなかった。

叔父が死んだ経験がわたしの中ではいちばん強烈なのかもしれない。わたしにとっては物心もつかないころに会っただけの知らない人だったけれど、祖父母にとっては大切な息子で、ちらっと見た祖母の顔が今まで見たどんなものよりも暗くて、どう接していいのかわからなかった。祖父母の家はうちのすぐ隣で、普段から行き来していたが、母から行かないようにも言われた。そのときはピンと来なかったが、祖母の表情を見てなんとなく行かない方が良いなと思った。

こう考えているといくらでも経験した死ネタは出てきて、特に悲しいわけでもないのに文字にするだけで涙が出てくる。

身近な死というのは人間だけではなくて、生きていればいくらでも目にする。食事をする際には動植物の死体を調理して食べているわけだし、道路を歩けば轢かれた鳥や蛙だっている。わたし自身の手で虫を殺したことだって何度もある。仏教徒でもないからそのたびにいちいち手を合わせて念仏を唱えたりはしないが、心が死んでいないのなら、何か感じるところはあるだろう。

例の教科書にこのような事柄が含まれていないのなら、筆者らには自殺どころか死や生命について何かを発信する資格はないのではないかなどと考えてみたりもする。

また、ペットが家族同然の存在となった今では、より濃厚に死について考えるきっかけが与えられていないでもないのではないだろうか(有名大学の教授に喧嘩を売るのは社会に喧嘩を売るのと同義なので下手な理論とも言えない文句じみた感想を述べることがおこがましく失礼に思え、とても曖昧な言い回しになってしまった)。確実に自分より早く死ぬ犬猫その他の幼少期から老年期まで見ていく中で、兄弟とも友達とも子供とも思えるような存在の命について考えないわけがない。わたしは、飼いはじめる前からずっと愛猫の死ぬ瞬間について考えている。きちんと覚悟しておかないと、あるいは覚悟していても、猫の死によって自分が潰れてしまうことは目に見えている。そうならないためにも、愛猫がいつか死ぬことはずっと忘れずにいる。

わたしが自殺しようとしたときに、最も心を痛めたのは猫のことであった。わたしの方が先に死ぬとは思っていなかったので(結局生きているが)、この子はわたしが死んだことを理解できるのか、わたしが急にいなくなったことについてどう思うのかなどと考えると、なんともいえないとても申し訳ない気持ちになった。家族のことも考えたが、彼らは彼らでなんとかなるだろうし、さして興味はなかった。わたしが死んだショックで祖母も死にそうだとか母が壊れるだろうだとか思うけれど、それは大した問題ではない気がする、少なくとも猫に比べたら。

そういうわけで、例の教科書を読んだときに何とも言えないもやっとした感じを胸に抱いたのであった。わたしは自殺という選択をしたことがあったけれど、おまえよりじっくり死に触れて死について考えているよ、これは絶対だよ。そう思った。筆者は他のもっと重大な問題を見たくないからそんなアホなことを言い出したのかなとも思うが、わたしをこんな気持ちにさせた某大学の教授たちのことは徹底的にボコしたいな、もやもやしているので。

サラバ青春を歌いながら泣いてしまうのは

卒業式になんの思い入れもないわたしが、チャットモンチーのサラバ青春を聴きながら、或いは歌いながら泣いてしまうのはどうしてなのだろう。自転車に乗って、ろくに覚えていないサラバ青春を口ずさんで泣きながら考えていた。
わたしは卒業式で特別な感情を抱いたことはそれほどない。高校の卒業式なんて切ろうと考えていたくらいだ(親・担任・保健室の先生などに多大な迷惑をかけたので、せめてもとも思って結局出た。袴が着たかったのもあるが。)。卒業式当時のわたしの感情は、翌日からの春休みへの期待と、緊張と、式の面倒くささでほとんどだったと思う。しかしながら、小学校の頃であれば在校生のよびかけや、中学のときであれば歌などのとき、泣いてしまっていた。どうしてかはわからない、場の空気に泣かされたのかもしれない。それと同じ理由で、サラバ青春の空気感に包まれて泣いてしまうのかもしれない。
もしかしたら、自覚していないだけで、卒業式で泣かせるような感情をわたしも持っているのかもしれない。だが、それがどういうものなのかわからない。せんせい、ありがとう。後輩、あとは任せたぞ。友だち、達者でな。親、ごめんなさい、ありがとう。これくらいだろうか。思い浮かばない上にピンと来ない。その割に少しうるっときた。やはり多少そのような気持ちは持っているのかもしれない、全くわからないけれど。だとしたら、サラバ青春を聴きながら泣いてしまっても当然と言える。
または、サラバ青春のメロディがとても感動的だという理由もあるかもしれない。ギターと、ベースと、ドラムと、そしてボーカルの声で泣かされているのかもしれない。いや、わたしが泣くとしたら、この要素は必須だ。音楽が良くないと、歌詞にものめり込めない。サラバ青春は、音楽だけでも、とても良い。

結局、どのような理由で卒業式になんの思い入れもない、それどころか億劫で、今となっては小中高のどの記憶もこじ開けてはならない負のものとなって、当時のクラスメイトたちと縁が切れて清々しているほどのわたしが、サラバ青春を歌いながら泣いてしまうのかはわからない。しかし、サラバ青春、そしてチャットモンチーは、良い。

自分がいちばん処女厨

新しい男の人とつきあう度に、自分が処女だったらよかったのにな、と考える。考えてしまって、勝手に悩む。女性でなくても、いちばん好きな人に処女を捧げたい、という気持ちは、まあ多少なりとも分かってもらえるだろう。わたしはそのとき付き合っている人がいちばん好きなので、つきあう度に処女だったらと思うのである(処女が既に失われた状態で付き合い始めた人は二人しかいないはずだが)。また、わたしはまだ若いといか幼くもあるので、向こうも当然わたしがそういうことに触れたことがないと思っているかもしれなくて、それを裏切ってしまうことを思うと、申し訳なくなるのである。これもきっと分かってもらえるだろう。
どうして急にこんなことを言い始めたのかというと、彼氏とLINEでセックスの話題になったときに脳が刺激され、この人と別れて別の人と付き合ったとき、また処女だったらよかったのになあと考えてしまうんだろうな、とぼんやりと思ったからである。(今の彼氏と別れる前提で始まってしまっているのはとても申し訳ないけれど、深い意味はないので、仕方ないと思って許してほしい。)そして、どう足掻いても処女にはなれないから、中に出されていなければ処女じゃないだとか、適当な理論を考えては、自分に適用することができずにさらに落ち込むのだ。ほんとうにばかみたいだ。後ろの初めてももう無いしな、と諦めようとしたとき、わたしはある仮説を思いついた。それは、「ひと月以上間が空くと処女に戻る」。巷ではすでに言われていたような気がするけれど、わたしはこれを支持したい。しかし、よくよく考えてみると前の彼氏と別れてから今の人と付き合うまでに何人かと関係を持ったし、ひと月も開いていないような気がするが、まあはっきりと覚えていないので気にしないことにする。
わたしが嫌なのは、すきな人に処女を奪わせられないことではない。いや、それも嫌と言えば嫌なのだが、それ以上に嫌悪しているのはそのように考えているわたし自身である。まるで、膜のない女性には価値がないとでもいうように考えているのではないか。テキトーな人とポンポンやってるくせに、人並み以上に貞操なんてどうでもいいものを気にしている。女性に、まっさらで無知なことを求めている。そんな自分が気持ち悪い。気持ち悪い童貞オタクと同じだ。今の彼氏はそんなこと気にしていないのに、わたしはがいちばん処女厨だった。
処女かどうかなんて、その人の本質を見る際には、取るに足らないことである。彼女がそういう人生を送ってきたから、今のあなたが愛している彼女がいるのに、処女じゃなかったからというだけの理由で彼女への愛が冷めてしまったというのなら、彼はそれだけの人間だったか、重視する部分がわたしの思う一般とは大きく異なるかであろう。どちらにしろそのような人とは関わりたくないが、困ったことに、彼がいるのはわたしの内部で、切り離すにはかなりの労力を要すると考えられるのである。
20191013

死ねなかった記録

先日、久しぶりに自殺未遂のようなことをした。ただ布団の中で、充電中のスマホのコードを首に巻いてきつく絞めただけなのだけれど、そのときのわたしは、もしかしたら死ねるかもしれないという一縷の望みにかけて力いっぱいコードを引っ張った。耳鳴りが聞こえて、顔に血が集まって爆発しそうな感じになって、それでももちろん意識が飛ぶなんてことはなく、そのうちに腕が疲れて手を離す、ということを何回か繰り返した。そのうちに、やっぱり死ねないな、と無力感に襲われた。悲しさのあまり首に巻いたコードを解くことが出来なかった。しかし、その反面で死ななかったことに安心していたわたしも居たように思う。

この弊害なのか、ものを飲み込むのが辛いほど喉が痛むし、充電器の接触も悪くなってしまった。どうしてこんなことをしたのだろうと考えてみるけれど、その前後の記憶がはっきりしなくて自分でも分からない。この頃の自分の精神状態がわたしの統制外にいていまいち掴めない。もしかしたらまた突然死にたくなって行動を起こすかもしれないと思うと怖い。死は望んで受け入れるはずのわたしが怖いなんて面白いな。わたしも結局人間だから、死を恐れているのかもしれない。

怖かった。わたしがわたしではなくなる感覚をこの身いっぱいに味わっていた。誰も彼もから見捨てられる予感でいっぱいだった。彼らで作り出されていたわたしが崩れて、立て直すこともなく彼らが離れていってしまったとしたら、わたしはきっと呼吸の仕方ひとつさえわからなくなるだろう。おそらく、首を絞めたときのわたしは、それが怖かった。ツイートを遡ればよく分かるのだろうけれど、遡る元気もないから、そういう結論で締めておこうと思う。

20191212