わたあめちゃんのお墓

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サラバ青春を歌いながら泣いてしまうのは

卒業式になんの思い入れもないわたしが、チャットモンチーのサラバ青春を聴きながら、或いは歌いながら泣いてしまうのはどうしてなのだろう。自転車に乗って、ろくに覚えていないサラバ青春を口ずさんで泣きながら考えていた。
わたしは卒業式で特別な感情を抱いたことはそれほどない。高校の卒業式なんて切ろうと考えていたくらいだ(親・担任・保健室の先生などに多大な迷惑をかけたので、せめてもとも思って結局出た。袴が着たかったのもあるが。)。卒業式当時のわたしの感情は、翌日からの春休みへの期待と、緊張と、式の面倒くささでほとんどだったと思う。しかしながら、小学校の頃であれば在校生のよびかけや、中学のときであれば歌などのとき、泣いてしまっていた。どうしてかはわからない、場の空気に泣かされたのかもしれない。それと同じ理由で、サラバ青春の空気感に包まれて泣いてしまうのかもしれない。
もしかしたら、自覚していないだけで、卒業式で泣かせるような感情をわたしも持っているのかもしれない。だが、それがどういうものなのかわからない。せんせい、ありがとう。後輩、あとは任せたぞ。友だち、達者でな。親、ごめんなさい、ありがとう。これくらいだろうか。思い浮かばない上にピンと来ない。その割に少しうるっときた。やはり多少そのような気持ちは持っているのかもしれない、全くわからないけれど。だとしたら、サラバ青春を聴きながら泣いてしまっても当然と言える。
または、サラバ青春のメロディがとても感動的だという理由もあるかもしれない。ギターと、ベースと、ドラムと、そしてボーカルの声で泣かされているのかもしれない。いや、わたしが泣くとしたら、この要素は必須だ。音楽が良くないと、歌詞にものめり込めない。サラバ青春は、音楽だけでも、とても良い。

結局、どのような理由で卒業式になんの思い入れもない、それどころか億劫で、今となっては小中高のどの記憶もこじ開けてはならない負のものとなって、当時のクラスメイトたちと縁が切れて清々しているほどのわたしが、サラバ青春を歌いながら泣いてしまうのかはわからない。しかし、サラバ青春、そしてチャットモンチーは、良い。