わたあめちゃんのお墓

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某国立大学の先生方へ、多分自殺問題の重大な部分はそこではないです笑

他大学の教職課程のある教科書に、今の子供たちが容易く自殺を選ぶのは死に触れる機会が減っているからだと書かれており、その本を読む気をなくした。死の重大さを分かっていないからだと。

こいつはなにもわかってない。

わたしは何度も自殺を考えたし、実際に行動に移したりもした。しかし、それが死を理解できていないからだとは決して言えないだろう。わたしよりも、普通に働いて生きている大人たちの方が死について何も考えないまま生きていると思っている。死にたくなったことのないやつが、死のうとした子は死についてろくに知らないだなんて、言えるわけがないだろう。死のうとするときには、嫌でも死について考える。自分の行きつく先であり、進学や就職などとは比べ物にならないほど大きな進路選択だ。そんな重大なものを考えないわけがないだろう。ストレスで疲弊したろくに使い物にならない脳で、死というつかみどころのない概念について散々考えて、考えついた先で自死を選んでいる。わたしは、10年近く自殺や死についてばかり考え続けて、そうして自分なりの答えが出て、しばらくしてから首を吊った。落ちもしなかったけれど。

少なくともお前よりは考えているよ。なんという題名の本だったか忘れてしまったが、あの教科書の筆者にそう言いたい。

筆者が言いたかったのが、今の若者が触れてこなかったものが死自体ではなく、愛する人の死に伴う自分や周りの人の悲しみといった様々な影響だというのならわからなくもない。一体いつの時代と比較して若者が死に触れていないと述べているのか知らないが、核家族化と高齢化で自分のよく知っている身近な人が死んだという経験がないという子どももいるのかもしれない。そこのところはデータを見たわけでも調べたわけでもないから知らないので否定できない。

だが、わたしにおいては、そうとも言えないのではないかと思う。幼すぎてあまりよくわかっていなかったような気がするけれど、祖父母の姉だか何だかの死に顔を見て「さようなら」をした記憶がある。

斜向かいのおじさんが死んだときも、なぜなのかよくわからないが、死に顔を見て送った。このときは、死の空気というか、おばさんの悲しみに触れるのが恐ろしくて、わたしはひたすら無だった。

隣の一つ上のお兄さんが死んだときも「挨拶してきなさい」と親に言われて渋々行ってきたが、お兄さんのきれいな顔と親御さんの表情を見て、何と声をかけていいかわからなかったことを覚えている。ただ静かにちーんと叩いて手を合わせるわたしを見たお母さんに、泣きながら「ありがとうね」と言われたが、何がありがたいのかもわからなかったし、何と答えるのが正解なのかもわからなくて、言葉にもならないような適当なことしか言えなかった。

叔父が死んだ経験がわたしの中ではいちばん強烈なのかもしれない。わたしにとっては物心もつかないころに会っただけの知らない人だったけれど、祖父母にとっては大切な息子で、ちらっと見た祖母の顔が今まで見たどんなものよりも暗くて、どう接していいのかわからなかった。祖父母の家はうちのすぐ隣で、普段から行き来していたが、母から行かないようにも言われた。そのときはピンと来なかったが、祖母の表情を見てなんとなく行かない方が良いなと思った。

こう考えているといくらでも経験した死ネタは出てきて、特に悲しいわけでもないのに文字にするだけで涙が出てくる。

身近な死というのは人間だけではなくて、生きていればいくらでも目にする。食事をする際には動植物の死体を調理して食べているわけだし、道路を歩けば轢かれた鳥や蛙だっている。わたし自身の手で虫を殺したことだって何度もある。仏教徒でもないからそのたびにいちいち手を合わせて念仏を唱えたりはしないが、心が死んでいないのなら、何か感じるところはあるだろう。

例の教科書にこのような事柄が含まれていないのなら、筆者らには自殺どころか死や生命について何かを発信する資格はないのではないかなどと考えてみたりもする。

また、ペットが家族同然の存在となった今では、より濃厚に死について考えるきっかけが与えられていないでもないのではないだろうか(有名大学の教授に喧嘩を売るのは社会に喧嘩を売るのと同義なので下手な理論とも言えない文句じみた感想を述べることがおこがましく失礼に思え、とても曖昧な言い回しになってしまった)。確実に自分より早く死ぬ犬猫その他の幼少期から老年期まで見ていく中で、兄弟とも友達とも子供とも思えるような存在の命について考えないわけがない。わたしは、飼いはじめる前からずっと愛猫の死ぬ瞬間について考えている。きちんと覚悟しておかないと、あるいは覚悟していても、猫の死によって自分が潰れてしまうことは目に見えている。そうならないためにも、愛猫がいつか死ぬことはずっと忘れずにいる。

わたしが自殺しようとしたときに、最も心を痛めたのは猫のことであった。わたしの方が先に死ぬとは思っていなかったので(結局生きているが)、この子はわたしが死んだことを理解できるのか、わたしが急にいなくなったことについてどう思うのかなどと考えると、なんともいえないとても申し訳ない気持ちになった。家族のことも考えたが、彼らは彼らでなんとかなるだろうし、さして興味はなかった。わたしが死んだショックで祖母も死にそうだとか母が壊れるだろうだとか思うけれど、それは大した問題ではない気がする、少なくとも猫に比べたら。

そういうわけで、例の教科書を読んだときに何とも言えないもやっとした感じを胸に抱いたのであった。わたしは自殺という選択をしたことがあったけれど、おまえよりじっくり死に触れて死について考えているよ、これは絶対だよ。そう思った。筆者は他のもっと重大な問題を見たくないからそんなアホなことを言い出したのかなとも思うが、わたしをこんな気持ちにさせた某大学の教授たちのことは徹底的にボコしたいな、もやもやしているので。