わたあめちゃんのお墓

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すきなひとに元カノがいること

元カノという存在が嫌いな人は結構いる気がする、「元カノ地獄」という歌があるくらいだから。けれど、わたしは、好きな人の元カノの影を感じるのが好きかもしれない。もちろん、元カノとは完全に縁が切れているという条件の上でだが。

こんなハグが良いとか、こういうデートが好きとか、ハグもデートもわたしとなんてしたことが一切無いのにそういうことを言えてしまうことの裏には、昔の恋人との経験があって、そこに元カノの影を感じずにはいられない。もしかしたらその子だったからそういったことが楽しめたのかもしれないのに、当たり前のようにそれがわたしにも当てはまると思っている愚かさも好き。

彼にわたしの立ち入れない部分があることや、変容することのない思い出があることも良い。すべてを知りたい、すべてわたしのものにしたいという気持ちも少しはあるのかもしれないけれど、そうなったらそうなったでつまらないような気がする。わたしがすきなひとを“ひとりの人間”として見続けるためには、そのくらいの距離感がどうしても必要なのだ。わたしをあいしてくれるひとは、たとえそれがわたしがすきなひとでも、容易くわたしを満足させる“道具”になりうる。そして、その末路は概ね見える。

もちろん、すきなひとがかつて他の女性を本気で愛していたことを考えると、気に食わないなぁという思いは湧く。彼の初めてがわたしじゃないのも多少は嫌だし、他の女が寝たベットにわたしを寝かせてると思うとそれなりに不快ではある(まあそんな経験は一度もないんだけど)。でも結局その女性とは上手くいかなかったわけだから、そんな女性は眼中にない。

そうはいっても、なにごとも初めての人というものは強烈に記憶に残るものだから、元カノが羨ましくもある。わたしと関係が終わったあとは、わたしのことなんてすぐ忘れてしまうかもしれない。それは辛い。元カノより愛されていそうだなって感覚はあるけれど。

元カノの話を聞くのは楽しい。このひとはそういう子が好きで、そういうふうに愛していたのかと思うと、恋愛観みたいなものを直で感じられる。わたしもその元カノと同じような愛し方をされるかもしれないし、もっと熱烈に愛されるかもしれないし、逆に落ち着いたような、冷めたような愛し方になるかもしれない。そういうことを考えるのがわりと好きだ。

すきなひとには、永遠にわたしのことを元カノのフィルターをかけて見ていてほしい。ここは元カノに似てるなとか、ここは元カノとは違うなとか。何年もずっと一緒にいたらきっとそんなことは考えなくなるのだろうけれど、そういう見方をされていたい。こんなことは、じゅうぶんに愛されている確信があるから思えるのだろう。


この文章が公開される予定のあと4か月後、10月中旬にもまだあのひとと関係が続いていることを祈る。