わたあめちゃんのお墓

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無神経

「ダイエットしなね」
とても何気なく言われました。わたしは恥ずかし‘そう’に笑いながら頷きました。

薬を飲んでいたら10キロ太ってしまいました。60キロにさしかかろうとしてきて、さすがに嫌だったし、服が着れなくなりそうだったので独断で服用を辞めました。再発のリスクよりも体型維持のほうが重要でした(維持できていませんでしたが)。
服用をやめたら見る見るうちに痩せていきました。ウエストは緩くなっていったし、ベルトの穴も4つほど移動しました。ガラスにうつる脚もそれほど醜くなくなりました。それでもまだ許容範囲にすら戻りません。
ダイエットを勧められたあのときは、既に今とそれほど変わらない状態だったはずなのに、それでも太いと判断されてしまいました。食後だったからなのでしょうか。わたしは今まで、小顔だとか細いとか可愛いとか言われて生きてきたので、どういうふうに受け答えをすべきなのかわかりませんでした。
その後、ふとああいうふうに言われたことを思い出しては度々不愉快な思いをしていましたが、ある時点で気づきました。嘔吐生活をすれば嫌でも痩せられますよね。3日ほど食べた直後に喉奥へ指を突っ込んで吐くことを続ければ拒食症になるらしいです。わたしも痩せられるし、彼も軽々しくした自分の発言で女性をそんな状況にさせてしまった罪悪感に苛まれつづければいいと思いました。まあ、吐き気を我慢しながら食事をする苦しみも、食べ物を吐いてしまうことへの罪悪感も、一日中続く吐き気に耐える辛さも、身をもって知っているのでやりませんけどね。
次に別の人からダイエットしろと言われたら嘔吐生活、はじめましょうかね。

やっと元彼と呼べるようになったけれど

今日、授業中に、隣に座っていた友達に、筆箱に付いているストラップが可愛いと褒められた。それは、少女終末旅行の最終巻あたりのおまけについていたちーちゃん。黒髪の方の子。元彼からおそろいで付けようねと貰った物だった。
もう別れてから随分経つのにまだ付けたままでいた。これは未練があるとかそういうわけではなく、ずっと付けていたら空気みたいな存在になって忘れていたからだ。と、信じている。ときどき、これはあの人から貰ったやつだなぁと思い出すことはあったが、当時はまだよりを戻す可能性があったので取り外さないままでいた。でも、もう外してしまおうか?
昨日、ちょうど元彼の写真を消す作業をした。やっと未練が無くなって消す気になった、などという訳ではない。たまたま他の作業をしていたら目に付いたのでこの際一気に消してしまおうと思ったのだ。彼の顔を直視するのはそれなりに辛かったし、彼の描いた落書きを少しでも目にするとしんどかった。だから、それらは全て消した。けれど、あの人の撮った綺麗な風景の写真と、わたしの落書きをあの人が加工してくれたものは消せなかった。結構ハイクオリティなので見てほしいが、勝手に見せて良いものなのか怪しいので、ここでは避ける。
画像を消している間、何度もあのとき彼のことが好きだったことを実感した。いや、実感とは少し異なるかもしれない。他人事のような感じでもあった。
わたしはかなりあの人のことが好きだったのかもしれない。もしかしたらそれはただの依存にすぎないかもしれないが、ここでは「好き」と表現させてほしい。その方が都合がいいし、汚くない。あのひととはじめて別れた直後、わたしはまだ「彼氏」と呼んでしまうのに、もう誰も「✕ーちゃん」と呼んでくれないことが寂しくなり、縮小垢のハンドルネームを「✕ーちゃん」に変えた。相互にも✕ーちゃんという名前の人がいたはずだけれど、あまり気にしないことにした。今も、少しの変遷は経たもののその名前のままだし、フォロワーには概ね✕ーちゃんと呼ばれている。この名前の背景には元彼がいるから、この名前のままで良いのか疑問に思うこともあるが、変えられる気はしない。

話は戻る。少し考えてみたが、筆箱のストラップは今はまだ外せないだろう。なぜなのかはよく分からない。なんとなく外したくないような気がする。ちなみにもうよりを戻す可能性はない。だから、付けている理由は無いはずなのに、なぜだろう。愛着でも湧いたのかな。

(2019/6/19)

両親に山に捨てられた話

自我が芽生えて強くただをこね始める“魔の2歳児”、あるいは第1反抗期の3歳の頃だろうか。全く言うことを聞かず、喚き立てるわたしを、両親は山に置いてくるふりをしようとした。一度痛い目を見せれば言うことを聞くようになると考えたのだろう。しかし、わたしのそれは発達段階上仕方の無いもので、そのようなことをすることは逆に甚大な悪影響を及ぼす可能性もあったかもしれない。嫌がるわたしを無理やり車に乗せ、父の運転で近くの山へ向かった。不思議なことに、そのとき山まであまり遠く感じなかった。
石碑のようなものがある場所で車から下ろされた。言うことを聞かないなら本当に置いていくからな、というような旨のことを言われた気がする。近くをおじいさんが通っていった。何か言われるかと思ったが、全く何も無かった。世の中はわたしが思うより他人に無関心である。
父は車に乗り、ドアを閉めて発進した。わたしはそれを後ろで見ていた。ほんとにいっちゃうんだ、そう思ったが、絶望感などはなかった。意外にもわたしの頭の中は冷静だった。しかし、車を追いかけなければならないような気がして、わたしは走った。そのうちに涙が出てきた。走って追いつくわけがないと思ったが、距離が開くこともなく、幼いながらも不思議に思った。途中で知らない男性とすれ違った。とても恥ずかしかったが、気にして止まるわけには行かなかったので、走り続けた。そのうちにゆっくりと車は停車して、わたしは追いついた。運転席から父が出てきて、これからは言うことを聞くかと訊いた。わたしは肯定した。終始、100%父の望むような反応をすることができた。
バカみたいだなぁと思った。

数年後、おかあさんは言った。あのとき父ちゃんの言うままに山に置いてきちゃってごめんね、止められなくてごめんね。わたしは別に捨てられそうになったことはなんとも思っていなかった。ただ、謝れば済むと思っているならそれはそれで愚かなことだと思った。

いのちの略奪はいつだって身勝手で理不尽に行われる

わたしは虫が嫌いだ。植物を含めた数々の生き物が好きな中で、虫だけは大切な人を殺されたかのように憎らしい。その中でも蛾が特に嫌いだ。知らない虫はもっと嫌いで、恐怖でしかない。一度室内で虫を見ると、あらゆるものが虫に見えるだけでなく、例えばあの物陰にもいるかもしれない、と何もできなくなる。また、身体中に虫が張っているようなむずがゆさを感じる。

 

バイトを終えて帰宅した。このアパートはなぜだか知らないが虫が多い。その日は特に多かった。蚊よけに買った虫コナーズに蚊が挟まって死んでいる。早く虫地獄から逃げ出したくて、玄関を開けた。できるだけ早く、すぐに閉めたが、何かが入ってきたのが見えた。絶望した。

仕方ないのでそのまま普通に生活することにした。ふと見ると、天井に虫が2匹いた。謎の虫だった。ものすごく嫌だったが、わたしにできることはないので、虫がそのままでいてくれることを祈りながら布団に入った。電気を消すと、窓に虫が何度もぶつかる音がして、しばらくすると止んだ。朝起きると、前の晩の場所に虫はいなくなっていたが、気にしないようにしてパソコンで作業をしていると、視界の端で蛾が飛んでいるのを確認した。心底嫌だった。無視して作業を続けていたものの、我慢できなくなってキンチョールを持ち出した。距離を詰めるには非常に多くの勇気を要した。狙いを定めて噴射した。死ぬには数秒かかった。

わたしはそれに触りたくなくて、今でも彼は部屋の隅に転がっている。

 

わたしは小さないのちを殺した。わずかばかりの罪悪感。ほかに方法はあったかもしれないが、わたしの中では、生きるために仕方のないことだった。

地獄に落ちるなあ、それは静かな諦めのようなものだった。

おかあさんのこと 2

わたしがおかあさんのことでいちばんよく覚えているのは、殴られたことでもなく、追い出されたことでもなく、褒められたり大好きといわれたことでもありません。それはある深夜のことでした。わたしはそのとき2階の自室で寝ていましたが、おかあさんの悲痛な声が聞こえて目が覚めました。夜中におかあさんの泣き声が聞こえることはよくあることでした。階段から1階の光が漏れているのが見えたので、2階の廊下から下を見てみました。すると、おかあさんがお風呂場に裸で蹲って泣いているのが見えました。どうしようかと迷っていると、そのうちに知らない男の人がおかあさんの背後に近づいてきました。わたしはこの男がおかあさんを傷つけたのではないかと疑いましたが、その男はおかあさんに大丈夫かと声を掛けました。何が起きているのか全く分かりませんでした。見てはいけないものを見てしまったような気がして、すぐに自室に戻り布団に入りましたが、その出来事が気になってしまってなかなか眠ることができませんでした。

わたしが高校2年生の6月に、おかあさんは再婚しました。おそらく、あのときの男とは違う人ですが、お相手とは再婚する前から付き合いがあり、よく高めの肉でBBQをしたり遠くへ連れて行ったりしてもらい、楽しい経験をたくさんさせてもらいました。弟は再婚に反対していましたが、わたしはおかあさんがどのような人生を送ろうが大して興味がなかったこともあり、また、おかあさんに幸せになってもらいたかったので、賛成していました。結婚式はいつ挙行するのでしょうかね。

ある日、わたしはもう使われていないおかあさんの古いスマホを見ました。人のものを勝手にみるのは悪いことですが、特に理由もなく好奇心で開きました。LINEを起動しました。履歴を見ると、2人の男性(片方は義父)とボダっ気のあるトークをしていました。おかあさんは当時の彼氏のことを書いた私の日記を気持ち悪いだのなんだのと散々言いましたが、おかあさんもわたしみたいなところがあったのを少しおかしく思いました。わたしはそのトーク履歴を見なかったことにして、スマホの電源を落としました。

深夜、右腕がカッターやライターを持つ

いつものように彼氏と通話していました、夜。気づけば彼の口数が少なくなっておりました。わたしは、なにか気に障ることを言ってしまったのではないかと、ひどく不安になりました。必死で呼びかけるも、応答はございません。やっと声が聞こえたと思ったら、今✕✕のピークだと言われました。上手く聞き取れず、聞き返したものの、返事はなく、わたしはひたすら不安になりました。なんのピークだろう、怒りかな、なにかしら不快感だろうな。わたしは、なにも、わたしが彼に与えたなんらかの不快な感情によって、彼に嫌われてしまうことを恐れたわけではありません。こんなことではまだ、彼がわたしを嫌いになるに足らないので。そうでなくて、わたしが彼を嫌な気持ちにさせてしまった、幸せでなくしてしまった、そのこと自体が、とても苦しかったのです。わたしは、彼にとって幸せなだけのものでいたかったのです。
耐えきれず、「きっていいよね」とツイートした後で通話を切りました。そして再びそのツイートを目に入れたとき、腕を切ることを思いつきました。彼からは切らないでほしいと言われていましたが、思い立ったら切るほかありませんよね、そのときに止められたら別ですけれど。わたしは浅い切り傷がたくさん並んでいるのを見るのが好きなので、そのように切っている箇所が左の二の腕にございます。いつものように、治りかけのそこを切ることにいたしました。ちょうど、こないだ新しいカッターを購入したばかりでしたので、それで切ったのですが、とても痛い。つらさのあまりに切っているわけではなかったので、痛みは恐らく人並みに感じました。しかし、そんなことでやめるわけにはいかなかったので、我慢して何ヶ所も切り続けました。連続して切らないと、血が滲んできて刃物に血が着いてしまうので、考える間などありません。そうして切っているうちに、歯止めが効かなくなりました。いつものことですが、切っても切っても足りない。今日はいつもより血がダラダラ出ましたが、それでも足りませんでした。切って血が十分流れるのを待つ間、彼に病んでるように見せかけたLINEを計30件ほど送りました。電話もかけましたが、応答がなく、無慈悲にも切れてしまいました。早く起きてほしかった、そして止めてほしかった、やさしいことばがほしかった。もしくは、失望していても構わなかった。しかし、彼は眠ったままだった。或いは、起きてはいたけれど、それでいて敢えて無視していたのかもしれません。わたしは止めてほしくて、わるいことをしているのだと叱ってほしくて、他の人にもLINEを送りましたが、返信はありませんでした。そして、疲れて動けなくなるまで切り続けました。

これは全く真偽のわからない、わたしが勝手に推測しただけの話なのですが、きっと、切ってほしくないと言われていなければ、切っていなかったような気がします。試し行為のようなものなのでしょうか、わかりません。でも、なんとなく、そんな気がするのです。わたしの意思で切っているわけではないので。また、切ってほしくないと言われたことで、余計にセルフハームに対しての罪悪感や嫌悪感は大きくなり、刃物を肉に当てるわたしを憎まずにはいられなくなりました。傷を作って困るのはわたしだと分かっているし、この行為がわたしをいとしく思ってくれる人たちを傷つけるものだと分かっていたのですが、それでも切るのをやめられない、自分の自制心の無さも、かなしかった。
わたしは、わたしに自傷行為をやめてほしいと言った彼を責めたいわけではありません。むしろ、自傷行為を許容されてしまう方が、わたしのことなんてどうでもよくて、わたしがなにをしようと構わないと思われているようで嫌です。それに、わたし自身も、いつかはこんなことをしないで生きていけるようになりたいし、それはできるだけ早い方が良いと思っております。ですから、くれぐれも誤解はしないでくださいね。

おかあさんのこと 1

おかあさんは3歳児神話を信じていたのでしょうか、3歳まではつきっきりで面倒を見ていたいと言っていて、内職をしながらいつもわたしのそばにいてくれました。しかし、のちのことですが父親はネットに新しい奥さんとの間にできた子供を保育所か何かに預けたことを書いていて、ごく幼い子供でも預けていいなどと意見していました。きっと、子育ての最初の時期からおかあさんと父では考えが合わなかったのでしょう、私が小学生のときに離婚しました。7年我慢したといっていました。

この記事ではおかあさんが離婚するまでのことを書きたいと思います。

 

おかあさんはわたしの弟に繰り返し女の子を殴らないように言い聞かせていました。正しくは、女の子というより自分より弱いものに対してなのですが、そのように言うようになった背景には、父に殴られたという出来事があるように思います。まだわたしが小さい頃のことだったので記憶にはありませんが、顔を殴られて、口の中が真っ白になったと言っていました。父は、自分は手加減したからと謝らなかったそうです。

 

一家でおかあさんの実家の隣に引っ越してきてから、父は夜遅くに帰ってきて朝早くに家を出ていくようになりました。決して仕事が忙しかったからではありません、おかあさんと顔を合わせたくなかったからです。おかあさんは父のためにご飯を作り置きしていましたが、父はそれには一切手をつけませんでした。このことがきっかけでおかあさんはわたしたちと一緒に食事をすることができなくなったと言っていましたが、その因果関係は今でもわたしにはよくわかりません。

 

ある日わたしが小学校から帰ってくると、おかあさんのものすごい声が聞こえました。父と喧嘩していたのです。わたしがおかあさんと父のいる部屋に近づいていくと、喧嘩をやめ、おかさんが部屋から出てきました。わたしは、この2人は離婚するのだと直感しました。そして部屋から出てきた父に離婚するのかと聞きました。父は曖昧に肯定しました。ドラマチックに生きたかったわたしは、離婚自体はそれほど嫌ではありませんでしたが、家を出て夜暗くなるまで帰らないことにしました。しばらく近所の公園で過ごして、飽きて帰宅するとおかあさんに怒られました。

それから何日も経って、本当に彼らは離婚しました。おかあさんはわたしたちに「私と父ちゃんは他人になるけど、あんたたちにとってはずっと父親だからね、会いたくなったらいつでも会いたいって言っていいからね」と繰り返し言いました。そして1冊の絵本をくれました。“ココ、きみのせいじゃない”という、親の離婚をめぐる子グマのお話だったような気がします。おかあさんなりに、わたしたちに離婚が与える影響を少なくしようとしたのでしょう。わたしは気が向いたときにその本を何度か読みました。センチメンタルなときには泣いてしまうこともありました。

 

離婚のストレスは甚大なものであったはずなのに、おかあさんはいつもわたしたちのことをいちばんに考えていてくれました。心に余裕のないおかあさんは、毎日のように怒鳴り散らしていましたが、どんなに辛かったり疲れたりしていても、ご飯だけは作ってくれました。一人暮らしを始めた今、学校へ行ってバイトをして、帰ってきてから家事をすることの大変さを痛感しています。カップラーメンばかりの不摂生な生活を続けているので、実家に帰って早くおかあさんの手料理を食べたくなっています。