わたあめちゃんのお墓

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おかあさんのこと 1

おかあさんは3歳児神話を信じていたのでしょうか、3歳まではつきっきりで面倒を見ていたいと言っていて、内職をしながらいつもわたしのそばにいてくれました。しかし、のちのことですが父親はネットに新しい奥さんとの間にできた子供を保育所か何かに預けたことを書いていて、ごく幼い子供でも預けていいなどと意見していました。きっと、子育ての最初の時期からおかあさんと父では考えが合わなかったのでしょう、私が小学生のときに離婚しました。7年我慢したといっていました。

この記事ではおかあさんが離婚するまでのことを書きたいと思います。

 

おかあさんはわたしの弟に繰り返し女の子を殴らないように言い聞かせていました。正しくは、女の子というより自分より弱いものに対してなのですが、そのように言うようになった背景には、父に殴られたという出来事があるように思います。まだわたしが小さい頃のことだったので記憶にはありませんが、顔を殴られて、口の中が真っ白になったと言っていました。父は、自分は手加減したからと謝らなかったそうです。

 

一家でおかあさんの実家の隣に引っ越してきてから、父は夜遅くに帰ってきて朝早くに家を出ていくようになりました。決して仕事が忙しかったからではありません、おかあさんと顔を合わせたくなかったからです。おかあさんは父のためにご飯を作り置きしていましたが、父はそれには一切手をつけませんでした。このことがきっかけでおかあさんはわたしたちと一緒に食事をすることができなくなったと言っていましたが、その因果関係は今でもわたしにはよくわかりません。

 

ある日わたしが小学校から帰ってくると、おかあさんのものすごい声が聞こえました。父と喧嘩していたのです。わたしがおかあさんと父のいる部屋に近づいていくと、喧嘩をやめ、おかさんが部屋から出てきました。わたしは、この2人は離婚するのだと直感しました。そして部屋から出てきた父に離婚するのかと聞きました。父は曖昧に肯定しました。ドラマチックに生きたかったわたしは、離婚自体はそれほど嫌ではありませんでしたが、家を出て夜暗くなるまで帰らないことにしました。しばらく近所の公園で過ごして、飽きて帰宅するとおかあさんに怒られました。

それから何日も経って、本当に彼らは離婚しました。おかあさんはわたしたちに「私と父ちゃんは他人になるけど、あんたたちにとってはずっと父親だからね、会いたくなったらいつでも会いたいって言っていいからね」と繰り返し言いました。そして1冊の絵本をくれました。“ココ、きみのせいじゃない”という、親の離婚をめぐる子グマのお話だったような気がします。おかあさんなりに、わたしたちに離婚が与える影響を少なくしようとしたのでしょう。わたしは気が向いたときにその本を何度か読みました。センチメンタルなときには泣いてしまうこともありました。

 

離婚のストレスは甚大なものであったはずなのに、おかあさんはいつもわたしたちのことをいちばんに考えていてくれました。心に余裕のないおかあさんは、毎日のように怒鳴り散らしていましたが、どんなに辛かったり疲れたりしていても、ご飯だけは作ってくれました。一人暮らしを始めた今、学校へ行ってバイトをして、帰ってきてから家事をすることの大変さを痛感しています。カップラーメンばかりの不摂生な生活を続けているので、実家に帰って早くおかあさんの手料理を食べたくなっています。